植物を見ればわかる
子どもを、一本の樹木だと考えている。どんな樹に育つかは、誰かが決めるものではない。周囲にできるのは、その子がどんな樹かをよく観察し、伸びやすいように環境を整えることまで。整えられた姿より、剥き出しのままの生命を美しいと思う。
物語を読む本来の姿こそが美しい
同じ窓辺に、同じように置いた二鉢の観葉植物、ガジュマルとパキラ。 苗のうちは、どちらも小さくて、よく似ている。けれど育つほどに、片方はどっしりと構え、もう片方はすっと背を伸ばす。 同じ世話をしても、樹種が違えば、育つ速さも姿も、まるで違う。 ――植物を見ていると、それがよくわかる。
準備中(絵)。ガジュマルとパキラの育ち方の違い(本来の姿の比較図)は、フェーズ4 の作り込みで入れる。図解の内容は naoki の一次情報で確定済み。
子どもも、同じだと思う。 私たち、子どもを一本の樹木だと考えている。 どんな樹に育つかは、誰かが決めるものではない。 親の願いで変えられるものではない。 周囲の人にできることは、その子がどんな樹なのかを、よく観察すること。
陽の当たり方、水はけ、風の通り道。 その樹が伸びやすいように、まわりの環境を整える。 周囲の人にできるのは、そこまで。 枝をどこへ伸ばすか、根をどこまで張るかは、自分で決める。
たとえば、ある子は、何かに興味が向くと、まわりが見えなくなるほど没頭する。 周囲の音も聞こえず、つい別世界に行ってしまう。 裏を返せば、一つのことへ深く潜る力だ。 この子の社会性を、無理に育てるべきだろうか。伸びたがらない枝を、引っぱって伸ばすべきだろうか。 私たちは、道具をそろえ、ワークショップにいくつも連れて行き、本を買い、没頭しているあいだはそっとしておくことにした。 ひとつだけ気をつけたのは、そのときのその子より、ほんの少しだけ背伸びしたものを渡すこと。 すると、ぐんぐん伸びた。 電気抵抗やダイオードを少しずつ飲み込み、回路のかたちをつかみ、やがて 3D CAD まで扱うようになった。
その子を「社会の標準」に近づけようと、枝を剪定することはできる。 でも、それで別の樹に変わるわけではないし、伸びたがっていない枝を、無理に伸ばすこともできない。 将来はどんな樹形に育つだろう。 周囲の人の思う正しさや、社会が求める標準を超えて、のびのびと、思いもよらない姿に育ってほしい。
盆栽にはしない
人の手をかければ、樹を思いどおりの形にすることはできる。 鉢の中で枝ぶりを決められた盆栽。四角く刈り込まれた庭木。 中には芸術的な作品もある。人間社会から評判の良い作品もあるし、都会によく溶け込む。 しかし、その樹が持つ本来の姿から遠ざかった、よく躾けられた姿にも見える。
どのくらい躾けるか? これは樹を管理する人の審美眼によるところなので、正解はないと思う。
私たちは「枝葉が混み合って、風が通らなくて、病気になってしまう」とか、 「脇芽を作りすぎて、主枝の成長に悪影響が出ている」ときには剪定をする。 しかし、基本的には「不格好な樹形で構わない」と思っている。
私たちは、整えられた姿より、剥き出しのままの生命を美しいと思う。 マナーや規範で刈り込まれる前の、生き生きとした姿。 それを、のびのびと伸ばしていきたい。
本人が社会に出たいと思うとき、マナーや規範を身につける力を自らつけられると信じて。
子どもの力を信じる
大人が子どもに向けるまなざしには、二つある。 「この子はまだ何もできない」と見るか、「この子はもう力を持っている」と見るか。 同じ子を見ても、まなざしが違えば、渡すものも、待てる時間も変わる。
私たちは、後者に立ちたい。
信じられた経験は、その子の土になる。 「自分は信じられている」と感じた子は、やがて自分と世界を信じられるようになる。 その土があるから、根を張り、自分で伸びていける。
子どもの力は、大人が思うより早くから育っている。 小さな子でも、危ないものには自分で気づいて、身を引く。 年齢に不相応だと大人が思うワークショップにも、面白ければ食らいついていく。 「まだ早い」と線を引いているのは、たいてい子どもではなく、大人のほうだ。
信じるとは、放っておくことではない。 甘えたい気持ちは、まるごと受け止める。 けれど、その子がやれることを、代わりにやってしまわない。 情緒は満たし、行動は委ねる。 抱きしめることと、手を出しすぎないことは、両立する。
この土があるから、次の「主体性」を、その子に託せる。
この「子どもを信じる」というまなざしは、佐々木正美さんの『こどもへのまなざし』から、多くを教わった。 私たちの子育ての、土台になっている一冊だ。