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主体性を育てる

自分で選び、自分で引き受ける

何が起きるかは選べないが、どう応えるかは自分で選べる。蒔いた種は、良いも悪いも自分で刈り取る。その痛みも経験も奪わず、選ぶ自由を少しずつ増やしていく。子どもも、対等な一人の人として。

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選ぶ自由

虫や爬虫類は、刺激を受けて、そのまま反応する。 餌を見れば飛びつき、驚けば逃げる。刺激と反応が、じかにつながっている。

人間には、その間に、ほんのわずかな「間(ま)」がある。 何かが起きてから、どう応えるかを決めるまでの、隙間だ。 その隙間で、私たちは反応を自分で選ぶことができる。

何が起きるかは、選べない。 でも、それにどう応えるかは、自分で選べる。 腹の立つ出来事に、怒鳴り返すのか、一呼吸おくのか。 うまくいかないことを、誰かのせいにするのか、自分の次の一手を考えるのか。

「選択」を放棄せず「自分のことは自分で決める」という意識でいることを、主体的と呼ぶことにしている。

「子どもは未熟」かもしれないけれど、「子どもは無力」ではない。 少しずつでいいから、選択する自由を増やしてあげたい。

蒔いた種は、自分が刈り取る

これは、農場の法則だ。 手をかけたぶんも、手を抜いたぶんも、そのまま実りになって返ってくる。 近道もごまかしもきかないし、誰かが代わりに刈り取ってあげることもできない。

人が育つのも、同じだと思う。 自分のしたことの結果は、本来、その子自身が受け取るものだ。

でも大人は、つい手を出したくなる。 子どもが辛そうだから、嫌がっているから、かわいそうだから、と。 先回りして、その子の代わりに刈り取ってしまう。

私たちは、そこをこらえることにしている。 たとえ「辛い・嫌だ・かわいそう」であっても、本人が受け取るべき結果を、大人が肩代わりしない。 自分のしたことを自分で受け止める、その機会を奪わないでいたい。

もちろん、取り返しのつかない危険は、私たちが取り除く。 けれど、やり直せることなら、その痛みも悔しさも、まるごとその子のものだ。 どこからが「取り返しのつかない」ことかは、迷うことも多い。多少の傷が残る程度なら、「経験」の側に倒す。 一つずつ自分で受け止めた経験が、危ないかどうかを見極める力や、自分の人生を自分で引き受ける力になっていく。

子どもを傷つけないことが、優しさなのではない。 自分の蒔いた種は、良いものも悪いものも自分しか収穫できないことを理解してもらう。

その先に、「よく観察して、自分で判断して、自分で責任を持つ」という行動がある。 自分の人生に自分で責任を持てるようにしてあげたい。

2つのそうぞう

何かを現実にするとき、それは二度つくられる。 一度目は、頭の中で。「こうなったらいいなぁ」と思い描く、想像。 二度目は、この手で。その想像を、実際のかたちにする、創造。

想像のない創造は、行き当たりばったりになる。 創造のない想像は、ただの夢で終わる。 だから、想像してから、創造する。この順番を、大事にしている。

子どもをバカにしちゃいけない。 子どもだって、設計図を描いてから、工作することの利点を理解できる。 子どもだって、手帳にスケジュールを書けば、1週間を想像して、創造できる。

最終目標は、それぞれの人生だ。 どんな自分を生きたいか。 人生をつくる主体は、ほかの誰でもなく、その子自身だ。

与えられた人生をこなすのではなく、 まず「こうなったらいいなぁ」と想像するところから、始めてほしい。 そして、その想像を、自分の手で創造していけるようにサポートしたい。

自分の頭で考えると「変な人」になる

常識や多数派の意見は、たいてい、いちいち考えなくても済むように用意された答えだ。 それに乗っておけば、まわりと足並みがそろうし、波風も立たない。

でも、自分で考える人は、そのつど自分で結論を出す。 「なぜ、そうするの?」と当たり前を問い直し、通説とは別の答えにたどり着くこともある。 すると、まわりから見ると「変な人」に映る。

私たちは、その「変」を、直そうとは思わない。 それは間違いのしるしではなく、自分の頭で考えたしるしだからだ。 多数派とズレるのが怖くて考えるのをやめるより、 ズレても、自分で考え続けられる人であってほしい。

もちろん、変わっていることが偉いわけではない。 みんなと同じ結論になったって、構わない。 大事なのは、その結論を、誰かに預けず、自分の頭で選んだかどうかだ。

子どもを対等な存在として扱う

「大人が決めたことに、従わされる」。 子どもにとって、これほど主体性を挫かれる経験はない。 そういう経験を重ねれば、大人の決定に反論しても無駄なのだと、子どもにも分かってしまう。

しかし、「農場の法則」の前でも、「自分のことは自分で決める」という主体性の前でも、大人と子どもに上下はない。 蒔いた種を自分で刈り取ることも、刺激と反応の間で反応を選ぶことも、大人だろうと子どもだろうと変わらないからだ。

大人にできるのは、ちょっと長く生きているからこそ見えること、分かることを、伝えることまで。 そのうえで、「どうする?」「どっちにする?」と、選択そのものは子どもに委ねる。 「危ない」「まだ早い」と大人が先に線を引いて、やってみる機会ごと取り上げてしまわない。

「子どもは考える力も選ぶ力もまだ未熟だから、大人が代わりに判断してあげて、子どもは受け身でいればいい」。 そういう構えとは、私たちは反対の側に立ちたい。 子どもを、対等な一人の人として扱いたい。

この「主体性」の考え方は、スティーブン・R・コヴィーさんの『7つの習慣』から、多くを教わった。 反応を選ぶ自由も、農場の法則も、二度つくられるという考えも、あの本がくれたものだ。