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基礎学力を軽視しない

学問が、人を自由にする

のびのび育つ自由を支えるのは、学ぶ力だ。主体性と学問は両輪で、「自分で決める」を支えるのは「自分で分かる」。目先の役立ちで測らず、賞味期限の長い学びこそ手渡したい。問いは、その子の中から湧いてくる。

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学問のすゝめ

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。 福沢諭吉『学問のすゝめ』の、あまりに有名な書き出しだ。 たいていの人は、ここで止まる。「みんな平等だ」という、いい話として。

でも、福沢の問いは、その先にある。 生まれながらに平等なはずなのに、世の中には賢い人も愚かな人も、富める人も貧しい人もいる。 この違いは、どこから来るのか。 福沢の答えは、はっきりしている。――学ぶか、学ばないか、だ。

そして福沢は「独立」を説く。 誰かに治められ、守られる側にとどまるかぎり、 世の中の仕組みがどう変わろうと、自分の人生を預けて生きる姿は変わらない。 その受け身から抜け出すために、学べ――と。

私がこれを読んだのは、二十歳のころだった。 理屈が腹に落ちて、しばらく唸っていた記憶がある。

主体性を持ちたい、と願うだけでは足りない。 それを支えるだけの学問がなければ、できないことは誰かに頼るしかなく、依存はむしろ増えていく。 「自分で決める」を支えるのは、「自分で分かる」だ。 主体性と学問は、両輪だと思う。

だから私たちは、基礎学力を軽視しない。 のびのび育ってほしいと願うほど、その自由を支える土台として、学ぶ力を子どもに手渡したい。

リベラルアーツ

リベラルアーツ――「自由七科」と呼ばれる、学問の古い分類がある。 古代ヨーロッパで、自由な人が学ぶべきものとされた基礎だ。

私たちが指しているのは、あの七科目そのものではない。 その根っこにある考え方のほうだ。

「自由(liberal)」は、もともと「自由な人にふさわしい学問」という意味だった。 稼ぎのため、誰かに仕えるための技術――実務の訓練とは、はっきり分けられていた。 知ること自体を目的にできること、そして学ぶことが人を自由にすること。 それが、この言葉の芯にある。

この芯を、私たちは誰かから受け継いだわけではない。 興味のままに学び、賞味期限の長いものを選んできたら、後から同じ場所に立っていた。

では、どんな学びが、人を自由にするのか。 見分ける目安にしているのが、その学問の「賞味期限」だ。 長く役に立ちつづけるものほど、目先を超えた「土台」に近い。

古典力学は、宇宙の法則が変わらないかぎり、ずっと使える。 線形代数も、一生ものだ。いま世を騒がせる AI も、その数学の上に建っている。 一方で「AI の使い方」は、たぶん半年で古くなる。 中学受験の「つるかめ算」も、方程式を習えば、役目を終える。 そして、テストのための暗記は、いちばん賞味期限が短い。

ここに、逆説がある。 賞味期限の短い学びは、すぐ役立つように見えて、すぐ効かなくなる。 賞味期限の長い学びは、すぐには役立たないように見えて、いちばん深く効く。

深く効くとは、自由になる、ということだ。 物理や数学がわかれば、世界のふるまいを読み、物理的な制約を越えていける。 筋道立てて考える力があれば、空気や通説に流されず、社会的な束縛からも抜け出せる。 福沢の言った「独立」も、つまりはこれだ。

暗記は、誰かが用意した正解に、自分を合わせる作業だ。 それは、自由の側にはない。 だから私たちは、目先の「役に立つ」で、学びを測らない。 すぐには使えなくても、賞味期限の長い学びこそ、子どもに手渡したい。 それが、その子を、いちばん遠くまで自由にすると思うから。

興味駆動で学ぼう

幼児の「なぜ?」「なに?」を、私たちは誰でも知っている。 問いは、教えられなくても、その子の中から勝手に湧いてくる。

「分かった!」が一つ増えるたびに、「分からない」がいくつも増える。 その「分からない」に気づくから、「どうしてだろう?」と、また次の問いが生まれる。 だから、大人が学びのために問いを用意してあげる必要はない。 「科学は面白い!」と、わざわざ言ってあげる必要もない。 科学者も、探求する人も、誰かにガイドされて問いを立てているわけではない。 「研究」というと大層に聞こえるが、その正体は、「知りたい」を突き詰めた人の姿だ。

むしろ気をつけたいのは、その芽を摘まないことだ。 子どもの「なぜ?」に、大人はつい「そういうものだよ」とはぐらかしてしまう。 幼いから、子どもだから、少年少女だから、と。 そうやって、知らないうちに興味を削いでいないだろうか。

人には、見えそうで見えないものを、覗いてみたいという欲がある。 だから私たちは、子どもに「こんなのがあるよ」と、ちらりと見せる。 不思議なものを見せられると、子どもは「知りたい」と身を乗り出す。 この、知をチラリと見せて興味を誘う――いわば「知のチラリズム」だ。 そこからどんな興味が芽を出すかを観察して、必要なぶんだけ手を貸す。

それが、興味駆動で学ぶということだ。