実践は、学問のスタート地点
人が伸びるのに要るのは、機会だ。教え込むより、その子ができる大きさに分けて任せる。実践と座学は両輪で、片方だけでは広がらない。手を動かしてつくり、旅で幅を広げ、読書で他人の人生を取り込む。
物語を読む機会こそが人を伸ばす
人が伸びるのに、本当に要るものは何だろう。 私たちは、それを「機会」だと思っている。 いろいろなことを任せてみる。裁量を渡す。自分の手を動かして、経験を重ねる。 たっぷり教え込むことよりも、この「任せて、やってみる」ことのほうが、人を大きくする。 教わった知識は、使う機会があってはじめて、その人のものになる。 知識がないために、困難にぶつかってはじめて、「知りたい」と思う。
とはいえ、いきなり全部を渡せばいい、というものではない。 大人がまずやることは、その子をよく観察することだ。 そして、その子がいま手をつけられる大きさに、やることを分けてあげる。 たとえば、「料理」を学びの対象とするなら、料理をまるごと委ねるのではなく、観察と監督のもとで、その一部を任せる。 うまくこなせるようになったら、任せる範囲を少しずつ広げ、やがて丸ごと委ねられるようにしていく。 まだ難しいようなら、もう一段小さく分けて、無理なく手をつけられるところまで戻す。 そうやって、渡す仕事の大きさを、その子の育ちに合わせて調整していく。
だから私たちは、子どもに、実践の機会を渡したい。
実践なき学問
気をつけたいのは、学びが「実践なき学問」で終わってしまうことだ。 どれだけ料理の本を読み込み、栄養や理屈に詳しくなっても、一度も台所に立たなければ、作れるようにはならない。 座学ばかりで手を動かさなければ、できることは、広がりも深まりもしない。
座学なき学問
けれど、その逆の「座学なき学問」もまた、行き詰まる。 ただ作り続けるだけで、野菜の特性や繊維の方向、味覚、保存、衛生といったことを学ばなければ、我流のまま、いつか上達は頭打ちになる。 実践ばかりで学ばなければ、これも、広がりも深まりもしない。 学問そのものが悪いのではない。私たちは、基礎学力を軽視しない。 実践と座学は、両輪だ。手を動かして初めて浮かぶ問いがあり、学んで初めて実践が深まる。 両輪で回してこそ、前に進む。
ものづくり
9歳の子どもが「船をつくりたい」と言い出した。
子どもは、まず絵を描いて幾つかの案をデザインした。 実現可能性のありそうなアイデアを 3D CAD で設計して、3D プリンタで小さな模型を作ってみた。 キッチンのボールに浮かべて、浮力をテストした。
最初の模型を修正し、3つめの印刷でできあがった。その船を目で見て、設計を完了した。 漠然と「船」と言っていたが、竜骨・肋骨に補強材、それぞれの材料が3次元的な厚みをもって組み合う様子までが現実的に想像できた。 漠然とした想像を、具体的な想像に変換していくプロセスは、難しいけれど、どこにいっても役に立つ。
3次元的な設計を元に、平面的な板をどう切り出すかをmm単位で計算し、流通する規格に合わせるなら、なにを何本買うか?の 予定を立てて、ホームセンターで実際に木を選び、運んで買った。 調達もまた、一苦労だ。
帰ってきてから木材を並べて、それぞれに墨付け(線を引くこと)をして、分度器を使ったり、 寸分違わずに3本の木に同じ線を引くにはどうしたらいいか?と頭を悩ませ、スキルを教わり、すぐに実践して、モノにしていく。 紙やコンピュータ上で線を引くのと、実物を触るのでは勝手が違う。 工学の入口に立つ。
問題解決は、分解して各個撃破が王道だ。 「船をつくる」という課題は、そのままでは大きすぎて、手がつけられない。 難しい問題は、問題を解ける大きさに切り分ける。 設計する、模型で試す、材料を見積もる、木を刻む、と。 今回、その切り分けは、親の私がやった。 でも、これを何度もくぐるうちに、子どもは自分で問題を割れるようになっていく。 きっと、ロードマップも敷けるようになるだろう。 大きな塊を、小さく、解ける形にほどく。これは、一生ものの考え方だ。
面白いのは、つくっているだけなのに、学びがいくつも付いてくることだ。 浮力とは何か。ペンキを塗るのに要る面積は、どう出すのか。 線の引き方、CAD の使い方、そして、いきなり完璧な設計と完成品を作るのではなく、手早く改良版を作っていく現代的な製品開発手法をも。 「考え方」と「使える知識」が、机の上ではなく、実践として身についていく。
私は、映画『魔女の宅急便』に出てくるトンボを見たとき、正直に「羨ましい」と思ったことを覚えている。 トンボが自転車を改造する工具を持ち、プロペラを用意し、ガレージで工作できたのだろう。 そんな父親を持ったトンボが羨ましくてしかたなかった。 自分は、山で拾った枝と、ツタを組み合わせて弓矢を作るのが限界だった。原始人だった。いや、道具も知識もなく、原始人以下だ。 挑戦さえも満足にできない環境では、伸びることさえできない。
これは、子どもの頃だけの話ではなかった。 大人になった私も、しばらくは同じ場所に立っていた。 ある大企業で、分業化された小さな仕事を、来る日も来る日も繰り返す。 安全ではあったけれど、腕は上がらず、時間だけが過ぎていった。 六年目に、小さな会社へ移った。大きな裁量を渡され、必死に働いた。 足場の悪いところで、背伸びして挑むような日々だったが、二年で見違えるほど伸びた。 同じ私でも、「五年のくすぶり」と「二年の修行」とでは、時間の値打ちがまるで違った。 伸びるのに要ったのは、才能でも、費やした年月でもない。機会だった。
いくら本を読んで、勉強しても、実践できないなら、学びが活かせない、深められない。 非常に悔しい気持ちを覚えている。
私は、道具と作業場と、つくる自由を用意していたトンボの父の姿を、勝手に想像している。 私は、誰もがアトリエ(ガレージ?)で「手を動かして、つくりながら学ぶ」ということを実践できるようにしたい。
この考えは、マーヴィン・ミンスキーさんの『創造する心』をも参照している。 子どもたちが、その「創造する心」を持てるように、支えていきたい。
旅に出る / 知らない世界を知る
旅と旅行は、違う。 旅行は、目的地も旅程も、あらかじめ決まっている。 旅は、そうではない。目的地でさえも、あってないようなもの。 自分の判断で、いつでも行き先を変えられる。行き先の変わる旅こそ面白い。
旅には、物理的に遠くへ行く旅もあれば、 普段は交わらない人たちのいる場所へ行く旅もある。 どちらも、慣れ親しんだ土地・やり方・考え方とは「違う常識」で回る世界に、身を置くことだ。
自分の当たり前が、当たり前でない場所に立つと、世界が広がる。 そして、世界が広がるほど、人はより自由でいられる。
世界は広い。それは、地球が広いという意味だけではない。 人は一人ひとり、自分の世界観を持っている。 だから旅先では、出会った人の話に、耳を傾けてみる。 その一人ひとりの世界を、旅してみる。 その人の視点を通すと、知っていたはずの場所も、似たような経験も、まるで違って見える。 同じ出来事に、違う解釈がある。
ものづくりが、一つのことへ深く潜る「探求」だとすれば、 旅は、それとは別のプロセスだ。横へ、幅を広げていく学びだ。 だから、心がひらいているときに、旅をするといい。
読書は効率よく他人の人生を取り込む方法
本を読むと、いつも思うことがある。 相当なエネルギーを使って、膨大な量の思考や経験、想いなどを、 わかりやすく体系的に丁寧に伝えてくれて「ありがとう」という気持ちだ。
感覚的には、著者の脳と、私の脳を、線で繋げて、著者の人生の一部をまるごとダウンロードしてインストールしているような気持ちになる。
考えてみると、これはすごいことだ。 著者が何年も、ときには一生をかけてたどり着いたものを、 私は数時間で、自分の中にインストールできてしまう。 同じところへ自力でたどり着こうとしたら、どれだけかかるか分からない。 一人の人間が、自分の足で経験できることには、限りがある。 でも本を読めば、その限りの外にある人生を、いくつも取り込める。 だから私は、読書を「効率よく他人の人生を取り込む方法」だと思っている。
しかも、本は時空を超える。 遠い昔を生きた人にも、遠い国の人にも、 本さえあれば、会いに行ける。 その人の世界に、まるごと入っていける。